日本のスポーツジムが若かったころ~山口和貴

会員の半分が60代以上とされるスポーツジム。1990年代までは30代以下が中心でした。若かった頃のスポクラを振り返ります(山口和貴)

自立できるか離島リゾート、ルネサンス長崎伊王島

長崎市の長崎港外に浮かぶ旧産炭地の島、長崎県西彼杵郡伊王島町。過疎化に悩む小さな島にホテル、プールなどのリゾート施設「ルネサンス長崎伊王島」がオープンして、1997年7月で丸8年を迎えた。島を訪れる観光客は開業前の十倍以上に増え、施設を運営する第三セクター「伊王島スポーツリゾート開発」(松本博社長)は地域づくり自治大臣表彰(1995年度)を受けるなど地域振興に果たしてきた役割は大きい。とはいえ、なお独り立ちには課題も少なくない。開業十周年を前に、炭鉱の島から変身した離島リゾートの現状を報告する。


◆町財政にも寄与


「閉山の島からイメージを一新することができた」。池下守・伊王島町長が説くように、リゾート施設は町をよみがえらせつつある。


長崎県観光統計によると、開業前年の1988年、伊王島町の観光客数は2万5800人。それが、1996年は32万2434人にまで膨らんだ。1972年の日鉄伊王島鉱(炭鉱)閉山時に6200人いた人口が現在は1200人。「島にも活気が戻り始め、島民もこれ以上は減らない」と、伊王島町は自信をみせる。


第三セクターの「伊王島スポーツリゾート開発」は地元町民約50人をパートで雇用、町には年間約5000万円の固定資産税も落ちる。一般会計20億円の伊王島町にとっては貴重な自主財源だ。1989年、長崎県内で46プロジェクトがリゾート法の適用を受けた。ところが施設開業にまでこぎつけたのは24プロジェクト。「伊王島はその成功例」と長崎県は強調する。


◆都市に近い利点


バブル崩壊後、全国的に離島リゾートの不振が目立つ中で、伊王島がなぜ順調に客足を伸ばしているのか。第一の理由は、長崎港から高速船でわずか19分という地の利だ。


3セクが1997年5月から始めた「長崎からの船賃込み3000円」の野外ビアガーデン利用者は、7月1日までで約1万7000人に達し、さらに約2万3000枚のチケットが売れている。「伊王島ならではのヒット商品」と話題になっている。


同じ長崎県内の離島・鷹島(北松浦郡鷹島町)に1993年開業したモンゴル村は、モンゴルから持ち込んだ宿泊施設「ゲル」30棟が目玉だ。しかし「都市との交通アクセスの悪さもあって」(地元)年間来場者は当初見込みの年間10万人を大きく下回る2万5000~2万6000人。伊王島との落差が際立つ。


◆徹底した滞在型


もうひとつ、伊王島の特徴は、離島のよさを生かし、遊戯機具などが並ぶ娯楽施設を排し、ホテルとホールを中核にプール、テニスコートなど、徹底した滞在型を志向してきた点だ。


それは教育界のハートも射止め、修学旅行の宿泊が1996年の30校約6000人から、1997年は55校約1万2000人(予約)という数字につながっている。


天草海洋リゾート基地構想の中核だったゴルフ場(熊本県本渡市、天草郡五和町)計画は1997年3月末、挫折した。用地買収が進まなかったためだが、そうしたリスクを伴うような計画を避けた戦略も、今の伊王島の基礎を築いている。


◆赤字をどう解消


とはいえ、3セクの台所事情はまだ楽ではない。これまでの設備投資額は約78億円に上り、開業以降、年間1億~2億円の赤字を継続。松本社長が代表を務める松早グループ(長崎市)の主力、松早石油(長崎市)に赤字補てんを頼っているのが実態という。


それだけに松本社長は「日帰り客を重視。オフシーズンの冬場にも食をテーマに企画を打ち、気軽に足を運べる快適リゾートのコンセプトを徹底させる」と強調。隣にある同じ旧産炭地の高島との連携も模索するなど「念願の黒字転化」を目指し、二の矢、三の矢を放つ構えだ。


「100億円以下の投資で離島のリゾート施設が独り立ちできれば、離島振興の一つの形が確立できる」(長崎県)。その目標へ、旧炭鉱の島はいま、自立に向け正念場を迎えている。


▼伊王島スポーツリゾート開発 石油販売を主業とする松早グループ(11社)が長崎県の要請を受ける形で参加、1988年設立した第3セクター。売却が難航していた伊王島町の県工業団地予定地7.7ヘクタールを転用、ホテルなど宿泊施設(約130室、750人収容)、プール、多目的ホールなどを整備し、1989年7月にオープンした。資本金4億5000万円。投資額約78億円のうち約6億5000万円を地域総合整備資金として県が無利子融資している。


1997年7月6日、西日本新聞


山口和貴


参考:http://open-waseda.jp/

バブル時代のインストラクターブーム~山口和貴

客の目標に沿う健康づくり


第2次ブームを迎えているスポーツジム(フィットネスクラブ、スポクラ)。そこで働くインストラクターと呼ばれるスポーツ指導員は、今や引っ張りだこ。とくに女性客が増えて、女性用ロッカーが足りなくて困るほどの繁栄ぶりの中で、やさしく、厳しい指導をする女性インストラクターは、女性の人気職業の1つにまでなってきた。


東京・六本木のアークヒルズ。住宅棟の中に1986年夏、資生堂が開設した「ホロニックスタジアム・ARK」では、インストラクターは16人中13人が女性。チーフの石塚さんがキビキビした口調でこう語る。


「仕事の第1は、お客さまの目標を伺うこと。スタミナづくり、減量、シェイプアップ、あるいは腰痛を治したいとか、思い切り汗をかきたいとか……。体力テストをして、プログラムを作り、やっと指導に入るわけです。ゴルフやテニス、スキーのためのトレーニングが目的という方も多い」


「ホロニックスタジアム・ARK」地下1階のアスレチックジムには、自転車こぎや腹筋台、バーベルなど12機種の運動具が並ぶ。木の床のスタジオは、エアロビクスやストレッチ体操に使う。20メートルのプール、サウナ、指圧室、そして全身美容室……。


会員制で入会金と保証金が計160万円。東京の最先端という土地柄をいかにも反映して、高価で、いたれりつくせりの設備。会員は芸能人や音楽家、ニュースキャスターらも来て1500人。


石塚さんは、スポーツが大好きで、インストラクターになったが、指導だけでなく健康づくりのアドバイザーを目ざす。保健婦や栄養士との連係プレーが成功した時が一番うれしい。減量がうまくいった客の報告が楽しみという。仕事のあい間に自分の技を磨く。


石塚さんはボディービルに夢中だし、関さんはエアロビクス派。器械体操が得意な遠藤さんは、ここで体操教室も担当している。


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スポーツクラブの第1次ブームは1971年ごろ。草分けの1つ、新宿の「ドゥ・スポーツプラザ」の副支配人・吉野正一さんは、創業当時は水泳指導員だった。いまも新入社員には、「3CMSをモットーに」といいきかせる。


「全部カタカナですみません」と前置きして、「3Cはコーチ、コンパニオン、コンサルタント。Mはマネジメント。Sはサービス」と吉野さん。ここでは法人会員が1000社に増えたのも大きな変化。体力づくりだけでなくハイテク化される職場に疲れてストレス解消型の客が目立つそうだ。


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健康産業はもうかると、この数年は異業種からの参入組が増え、第2次ブームになった。ホテル、不動産、生保、流通、ガス会社からビール、自動車メーカーまで。中には工場の跡地や遊休地利用組までざっと1000を数えるといわれる。庶民的な値段の施設も多い。当然ながらインストラクターも人材不足。行政も講習会を開いたり、目安の1つになる資格制度づくりに乗り出した。


厚生省(現・厚生労働省)は1988年3月に「健康運動指導士」の資格認定制度をつくった。外郭団体による第1回講習会を終え、受講した122人が3月19日には認定試験を受ける。「講義は144時間。安全で効果的なスポーツ指導をするために、運動生理学から医学、栄養学まで広範囲です」と担当の厚生労働省健康増進栄養課。


一方、文部省(現・文部科学省)も「スポーツプログラマー」という名称の資格制度発足を検討中、というからややこしい。


山口和貴


参考:http://www.xclubfitness.com/